>> 最近のオブセッションは、「マインズ・アイ」下巻に載っていた R.スマリヤン「認識論的悪夢」にある、言及すると、言及したこと自体がその内容を否定する可能性を含む文です。かいつまんで要約すると、過去に眼の病気にかかっていて、色が違って見えていた(今は治っている)男が本の色を尋ねられて、「赤く見えます」と答える。しかしそれは間違っている。なぜなら、もし本当に赤く見えるのなら「赤です」と答えるはずで、「私は赤だと信じます」とか「赤だと見えます」と答えたということは、実際には本の色が赤だと信じていないということ示しているのだ、というものです。面白いですなあ。
こういう文を作りだすには言説 S に「と見える」「と信じる」「と考える」「と思う」などをつければできそうです。「と言う」はダメ。なぜなら、言ったか言わないかは厳然とした事実だからです。つまり第三者からみてもわからない動作なら大丈夫というわけですね。見たとか信じたとか考えたとか聞いたとかはそう動作した本人しかわからないわけで、しかも自分で自発的に制御しているわけではないというのがポイントなのでしょう。このことについてはもっともっと脳のパワーを割く必要があります。
ドイツでツェランの詩集が 12 月に出るみたいなので注文しておきました。自分へのクリスマスプレゼントです。それで他にも欲しかった本もいろいろと注文。というか、ほとんど全部英語の本でした。これはとても嬉しいことだと思います。とうとう僕は日本語を乗り越えて次のステップへ進もうとしているのだということです。そう、やっぱりあらゆる書籍は原語で読むべきなのですよ。特に、非常にうまく日本語に訳された本を読むたびに逆説的にそう思ってしまいます。最近、Bloglines で Project Gutenberg の新着書籍をチェックしているのですが、その膨大な「巨人の肩」的知識が自分に身に付いたことを考えるとクラクラするのです。そう、いつの日かドストエフスキーをロシア語で読み、ガリア戦記をラテン語で読み、ロルカの詩を口ずさみながら、史記を斜め読み、神曲に酔い、レムの奇想に腰を抜かす。そんな日がいつか来ることを妄想するのです。そう、いつの日か。とりあえずは次世代の標準言語と目されている英語を読むことを覚えようと考えています。
「Ruby/Tk の動向」が面白いです。TK => ダサい、という認識を改めなくてはいけません。
ポール・グレアムの新作エッセイが出てました。先の大統領選について書いているようです。が、なんだかルールにあてはまらないものがあるので公開中止だそうです。
ゲームとして出ているようですが、僕はもうゲームはしないので。
Solaris がオープンソースになる可能性が高いとか。RHG のあおきさんが喜ぶでしょうな。
発言の元サイトが /.-ed されているので、よくわかりませんが。
from Java.net
9 月の記事ですが、見逃していました。未来はもうここにあるのですね。