» 最近”あけてくれ”で何度も言及されている三浦俊彦「論理パラドクス」読みました。面白いですねえ。ただのパズル集としても面白いですが、好みの問題や、倫理的な問題でも、別の問題と対応づけて一貫性を問うのが面白いです。「もし、あなたが○○主義者なら……」とかで。こうやって仮定をひとつずつ認めていって、論理的に可能な世界の枠組を決めているのだなあと感じました。それが、「可能世界」なのかどうかは「可能世界の哲学」を読んでいないのでわかりませんが。あと、僕の頭が悪すぎて意味不明な問題もありました。「死ぬ/死ーぬ」問題はいったいなんのことを言っているのやら……。
» しかし、このなかにあった「仮想的な悪魔による意識のコピー問題を考えると、同一性の定義は身体にある」という命題は納得しかねます。それで、そのことをずっと考えていたのですが、これは意識はコピーできても自意識がコピーできないというところに欠点があるのかもしれません。それは何故かというと、自意識というものは自己言及的なものだからです。
» たとえば、A という人がいて、その人の意識のなかで「私は私である」というものが自意識です。それで、だれか(神さまとか悪魔とか)が A を コピーしたとします。コピーのほうを B と名付けることにします。さて、B のほうにも意識はコピーされていますから、自意識が生じます。それは B の意識のなかの「私は私である」というものです。これを A と B の外からみれば、A は「私(A)は私(A)である」と考えていて、B は「私(B)は私(B)である」と考えています。ほら、考えていることが違います。コピーはできていません。
» それで僕が考えるのは、もしもコピーされた B が B の身体で考え、B の意識を持つが自意識だけは何故か B をスルーして A に向かうとするとどうだろうというものです。つまり外からみれば B は「私(B)は私(A)である」と考えているものです。そんなことが可能なのでしょうか?「私は私の力で考えるが、私を私たらしめているものは何故だか私ではない、アレだ」というような状況が。おっと、こんなセリフをいうことはないですね。上に出てきたような「私は私である」という文章はトートロジーを言う目的で発せられたわけではなくて、最初の「私」を二番めの「私」で定義づける目的で発せられているわけですから。この場合 B は、「私は B の力で考えることができているが、私を私たらしめているのは、私(A)の思考のおかげであり、それがなければ私は考えることはできるが私ではない他人になる。すなわち私は A である。おそらく A 自身に意識があると考えたのは、私の考えた妄想なのだろう」というものでしょう。
» 同様の処置を A にも施して、A の自意識の目的地を B にすると面白いでしょうね。自分のアイデンティティをお互いに持ち合うわけですから。「私が私であると考えるのは……」
» 「もしも 13 が素数でなかったら?」みたいな話ですなあ、もう。
写真のような体勢でお尻を持ち上げる運動のことを言うらしいです。やってみたら、本当にものすごく腹筋にきますね。このあと、お腹が疲れすぎて腕立てふせもできなくなってしまいました。
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