» 火の鳥未来編の出来に憤死。
» また肛門から血が噴出しました。もう僕は駄目なのでしょうか。もう僕が幸せになることはできないのでしょうか。僕がどんな努力をしても、これがある限り僕は尻穴から血を流して倒れてしまうのでしょうか。嫌だ嫌だ嫌だ、です。ふざけるのは止めて欲しいです。絶対に僕は手などついて慈悲を乞うような真似はしませんから。たとえ僕の身体が裏切ろうとも、僕の頭がいかれようとも、闘うのです僕は。最後まで。「待て、参った」と声を上げればたちまち地獄行きなのですから。
» 上記のはシェイクスピア「マクベス」のもじりです。最近演劇づいているので、いろいろな人の「マクベス」の訳を読んでみましたが、その中では岩波文庫の木下順二訳が一番いいかもしれません。なぜかというとこの人の訳が一番、舞台用らしくてそのままセリフとして演じられるように訳されているからです。そういう意味ではかえって坪内逍遥訳も歌舞伎のような日本古典演劇としていいのだろうかと思いましたが、さすがに旧字旧かなは僕には読めません。さらにいうなら僕には日本古典演劇に関する知識は全くありませんし。この点では新潮文庫の福田恒存訳はあまりにも文学的過ぎると思うのです。
» とはいえ、所詮言語は言語、言葉遣いはただの言葉遣いです。言語は思考を規定しません。確かにそれぞれの特色やらは出てしまうと思うのですが、どんな言語であれ言葉に対する神経症的な努力を行えばそれほど意味が変わらずに訳出できると信じています。そして、どんな言語でも言葉に対する神経症的な審査が必要だと思うのです。たとえそれが母国語であろうともです。僕自信は出来ていませんが、それが理想であるということは肝に銘じてはいます。この比喩に対する誠実さのために、僕は肝臓に文字を刻み付けたいほどです。
» 神経症、神経症、僕は神経症にかかっているのではないでしょうか。最近、人と喋っていると全く同時に相反する 2 つの返答が同時に浮き上がってきて困ります。例えば「ああ、なるほど/何いってんだ」「それはすごい/つまらない」「よく分かります/それは違う」等、当たり障りのない返答をすればするほど、もう一つの仮借ない返答が同時に浮かび上がってくるのです。あるいは、「わたしは正常だ/わたしは狂っている」「わたしは幸せだ/わたしは死にたい」「わたしは感謝している/わたしは恨みに思っている」等々、全く反対の思考が同時に浮かんでは、そのどちらにも納得いく論理演繹ができるという不思議な脳みそを抱え込んでしまっています。不思議不思議です。ただ、今のところはなんとか当たり障りのない方の台詞を吐くことができるので、このことは誰にもバレていません。僕は昔から演技は得意でした。そのように振舞うことなど朝飯前です。そして、そう振舞うことこそが僕の本質なのかもしれません。そういうわけで僕は正常だと言えますし、それでいいのではないでしょうか。本当に恐れるべきなのは、その 2 つの思考の論理演繹に、さらに 2 つの思考を用意してしまうことです。そんなことになれば再帰的に生まれる 2^n の思考の狭間で僕は永久に押し潰されてしまうのではないでしょうか。それこそ心底怖ろしいことです。
» キブスン「パターン・レコグニション」を読んでいて疑問に思ったのですが、スティーブン・キングは結局、紙と万年筆を使っているのでしょうか、それともタイプライターを使っているのでしょうか。この本ではギブスンの本のなかでキングの使ったというタイプライターがガジェットとして出てくるのです。でも、僕の一番好きなヴォネガットの本「タイムクエイク」の中で、キングは万年筆で黄色いメモ用紙に手書きしていると書いてあります。そして誰だったか、どこかインターネット上のファンサイトでもやはり、キングは今でもペンと紙を使っているという記述を見たこともあります。しかし、例えば Gauche の Kawai さんによるキングのページなどを見ると、思いっきりタイプライターと書いてあります。これは一体どういうことでしょう。ギブスンの本もヴォネガットの本も訳者は同じ浅倉久志さんなのですから、何か注釈があってもいいとは思うのですが。
» 今日は父の日です。父、父といえば、もちろん I will arise and go to my father ... ですよ。あれはとてもいい話です。僕もいつか父に謝る日が来るのでしょうか。父は僕を許して仔牛を屠ってくれるでしょうか。
7/17 〜 8/13 まで。
囲い込まれたい人は買っても損はないと思います。